アメリカと日本の農業を比較 Vol.5 -アメリカと日本の農業教育の始まり-

こんにちは。

いつもAgri Step(アグリステップ)をお読みいただきありがとうございます!

UC Davisにてアメリカの農業教育史について学ぶ機会があり、とてもおもしろかったので記事にしてみました。

農業をアカデミックな視点で見ていて、考えることが多々ありました。

今回はアメリカの農業教育がどのように発展してきたのかをお伝えしていきます。

また、そこから僕が考える日本との違いについても書いていきます。

アメリカの農業教育

アメリカは移民によって開発されてきたため、歴史自体は日本の方が古いです。

僕が以前読んだ本には、ヨーロッパでのスパイス需要の高さから大航海時代に著名な方々が新大陸を見つけたと書いてありました。

アメリカの歴史について学んだ際に1793年に初めてコットンの種と繊維とを分ける機械が発明されたことを知り、大航海時代の終わりがおよそ17世紀なのであながち間違いではなさそうだと感じました。

アメリカ大陸を開拓していく中でまず知っておくことは、ネイティブアメリカンの土地を押しやって始めたことです。

そこからアメリカの大規模な開拓がスタートしていきます。

アメリカ農業教育の幕開け

政府が積極的に旗を振る以前の農業教育は、家族内教育の一環でした。

今まで親や周りの人たちがしてきたことを伝えるというものですね。

これに関してはどこの世界も同様ではないでしょうか。

1700-1800年代に少しずつ農業教育の発展がはじまりました。

理由としては

  • 農家の子供に対する教育レベルが極度に低い
  • 農業の学校がそもそもなかった

上のような状況から、農業の専門学校が設立され始めました。

The Morril Act

1862年に”Land Grant Act”という法令が発令され、連邦政府から各州に対して、農業教育と機械関連の教育を行う大学を作るための土地が付与されました。

この時、女性差別や肌の色による人種差別などによって、この機関で学ぶことのできる人は限られていました。

また、ネイティブアメリカンの土地を付与しており、大規模に押しやられてしまった裏側の事情もあるようです。

この時にできた大学がA &M (Agriculture & Mechanics)カレッジと呼ばれます。

UC Davisで有名な卵の顔です。全部に意味があります。
あきら

UC DavisもそのA&Mカレッジの1つです。

しかし、時代の流れの中、農業社会全体で多くの人材が必要なことや、大学だけでなく、職業学校等が必要であるということが分かってきました。

そこで1963年には”Vocational Education Act”という法令で、連邦政府から専門学校のための支援金や、学生への金銭サポートといったお金の出資が行われるようになりました。

また、授業の内容もその地域の特性に絞った内容がカリキュラムとして組み込まれていったため、より実践的な内容に変化していきました。

その後次第にA&Mの大学にて学ぶことのできる学生が増えていきます。

1890年に黒人の方、1976年に女性の方、1994年ネイティブアメリカンの方々が大学に入学できるようになります。

時間をかけてゆっくりと大学の体制が変化してきたことが分かります。

そして教授にも焦点があてられていきます。

“Carl Perkins Act”では、教授に対して年間で給料が支払われるようになりました。

今まで、9か月の授業に対して9か月だけの給料といった働き方だったのに対し、農作物の管理など授業外での教授の仕事が年間を通して行われることが広く認知されたことによって働き方が改善されたようです。

それでは日本の農業教育の歴史はどのように変化してきたのか見ていきましょう。

日本農業教育の歴史

日本で最初に農業の教育機関が設立されたのは1876年(明治9年)に開校した札幌農学校です。

1872年(明治5年)に北海道の開拓使によって開拓使のための農業教育が東京芝の増上寺にて行われました。
その後、1875年に札幌へ移設され、初めは札幌大学という名前でしたが、すぐに札幌農学校と改名されたそうです。

札幌農学校のモデルとなったのはアメリカの農科大学で、アメリカ式の大農主義農業が教えられました。

「少年よ、大志を抱け」という名言で有名なウィリアム・スミス・クラークが初代教頭として招かれています。

札幌農学校、クラークについて気になる方はぜひ下の記事をお読みください。

農業学校が設立される以前の江戸時代まで、「老農」という教育者が「農書」を使って教えていたそうです。

農書は近代的な農業大学校の普及に伴って、全国的に普及をしていきました。

理由としては宮崎安貞によって執筆された「農業全書」(1697年)の内容が優れていたためです。

その内容は、既存の各地に散らばっている農書を読み、老農と話し、中国の農学書を翻訳するなど広く農業知識をかき集めたものでした。

また、先行研究を活用していた上、宮崎安貞自身が農業技術を実験していました。

あきら

農業全書は、その頃の日本で7~8割の普遍性があるだろうと捉えられていたそうです。

宮崎安貞について書かれている論文にて、農業全書における宮崎の果たした役割が分かりやすかったため、参考までにリンクを貼っておきます。

宮 田 晃 宏(2019)「日本の農業経営と農業知識移転の歴史的考察」74-80

1899年(明治32年)には、「実業学校令」という法令が発足され、年齢と学歴に合わせた農業教育が行われることとなります。

また同じく1899年に国庫補助法によって、農業試験所や農業学校が全国に作られていくこととなりました。

日本の農業教育の歴史がとても詳しくこちらで書いてありますので、さらに気になる方はお読みください。

上野忠義 (2014)「日本における農業者教育」農林金融2014.4

アメリカの場合は1862年にはすべての州に対して農業の大学教育ができるように連邦政府が動いていたので、アメリカの動きの方が早いことが分かります。

まとめ

今回はアメリカと日本の農業教育がどのような歴史をたどってきたのか見ていきました。

日本と比べた場合、アメリカは歴史が浅いのですが、農業教育の制度化や、設備の配置など日本よりも先に進めてきたことが今回分かりました。

しかし、農書の存在や老農といった教育者が長年培ってきた知識など日本の農法/農術に関して古くから記録されてきたことは日本が誇れる部分だと思います。

日本で最初に設立された農学校に、アメリカから招待されたクラーク教頭が来たように、現代の日本農業には日本人だけの知識でなく、他国の見分が影響していることは自明ではないでしょうか。

現代も日本で学ぶだけでなく海外からも学ぶ姿勢を大切にしていきたいと個人的に考えています。

そんな海外で学んでいることや、日本でもこれから学んでいくことは少しずつ今後も記事としてみなさんにお届けできれば良いな思っています。

今回も最後まで記事をお読み頂きありがとうございました!

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